会社誕生物語
ある現場で出あった2人のSEは意気投合し、会社を設立しました
初代社長と初代専務です
初代社長は、それまで働いてきた会社がいくつも倒産してしまっていたため、今度こそ成功するぞ!という思いを込めてSuccess(成功)の動詞形である、
《SUCCEED》
に決めたそうです。
40年前といば、まだまだ技術者が少ないコンピューター業界
当時の情報処理業界は黎明期。
プログラムのコーディングも80バイトのカードの穿孔機(穴あけ機)で一行分の打ち込みをする・・・(想像できません)
パソコンなんて無い時代なので、1000行のプログラムを作成するなら1000枚のカードに打ち込みする、そんな時代でした。
だからこそ技術者も少なく当時は高額のお仕事がたくさんありました。
2名で始まった会社は社員もどんどん増えていき、1980年代後半には50名を超えていました。
当時は証券システムを多く手掛けていました
バブル期で売上も収益もすごかったそうです。入社2~3年目で、現在の20年目くらいの年収だったそうです(今想像すると羨ましいですね!)
1980年代に入りバブルが崩壊!
やがてバブルは崩壊し、証券業界は大打撃。
証券会社からお仕事を多くもらっていたサクシードも同じく大打撃をうけます。
バブル崩壊の翌年、会社設立以来初めての赤字を出しました。
途中だった開発も打ち切りになり、仕事は激減!
「お手伝いできることはございませんか?」と電話をかける日々が続きました。
このとき、大変な仕事の辛さよりも、仕事が無い辛さの方がキツイことを知りました。
会社は倒産寸前!!どうしよう??
仕事はどんどんなくなり、もらえる金額もどんどん減り、当時80名いた社員は40名に半減しました。その当時の2人の経営者は夜も眠れなかったそうです。
でも・・・・・・・・サクシードは潰れませんでした。
縁あって公共系の仕事をしていたおかげで・・・
税金を元に組まれた年度予算で仕事が動いている公共系の仕事は、不景気になったからといっても、年度単位の時間差で影響を受けるため、すぐには仕事がなくならなかったのです。
景気に左右される金融業界だけではなく安定した公共系の仕事を!
この経験から景気に左右されやすい金融業界だけではなく、公共系の仕事も増やし、コツコツやっていこう!と方向転換したのでした・・・
リーマンショックの影響で売り上げが少し落ち込んだけれど・・・
社員数も売り上げも順調に伸び、大規模システムに関わることも増えました。
こうして、 長年じっくりと業務と技術とサービスを提供し続ける というスタイルが出来上がりました。
仕事ぶりを評価していただけて・・・
お仕事をさせていただいて知り合った方からお隣の部署のキーマンの方をご紹介いただき、またその部署からお仕事を頂き、その方のご縁でグループ会社のお仕事をいただき・・・そうやって着実に成果を上げていくことができました。
さて、当時サクシードには
「大企業であるメーカーと直接取引をさせていただきたい!」
という夢がありました。ちっぽけな企業にとっては大きな大きな目標でしたがそれから20年後、いよいよそのタイミングがやってきました。
ドラマに例えるなら「下町ロケット」の佃製作所と帝国重工・・・
直接取引の申請がとおり、やっとこぎ着けた企業審査当日。審査員であるお客様たちをひきつった笑顔でお迎えしました。
サクシードが直接取引するに値する企業であるかどうかを、財務・セキュリティ・品質・教育・・・と300項目以上のチェック項目で判断されます。
これらのチェック項目をクリアして初めて取引させていただけるのです。
緊迫した雰囲気の中、口はカラカラ、汗はダラダラで数日間に渡る審査を乗り切りました。
結果は・・・<<不合格>>
「え?!落ちたの???」そうです、不合格だったのです。
((少々社名も売れてきたし、合格にしてくれるだろう))という甘さが露呈したのです。
「あのサクシードさんがこの程度ですか」と言われました。現実はドラマのようには行きませんでした。
「よくこれたもんだな」と言われながらも・・・
直接取引が不合格となり、鉛のような気持で関係者に頭を下げて回りました。
半年後に再チャレンジさせていただき、ようやく合格!
直接取引OKの一報に一同湧いて喜びました。大きな大きな勲章を頂いたようなもので、社員一同が誇りに感じたものです。
また階段を一つ上りました。コツコツやってきたことのご褒美とも捉えることができました。
「コツコツ」はサクシードの特徴を表すフレーズの一つかもしれません。
その後も「コツコツ」努力してきた甲斐もあって、現在では
日立製作所殿を含む日立グループ各社よりパートナー認定を頂くまでに成長しました!
これからも「コツコツ」とやっていきます。
これからもサクシードは成長し続けます!